教えのやさしい解説

大白法 725号
 
染浄の二法(せんじょうのにほう)
 「染浄の二法」とは、「染法」と「浄法」をいいます。染法とは、迷いの生命である無明(むみょう)のことで、十界に約せば九界を指します。浄法とは、悟りの生命である法性(ほっしょう)のことで、十界に約せば仏界を指します。

 染法と浄法
 染法の「無明」とは、成仏を妨げる一切の煩悩の根源です。これは十二因縁の最初にも挙げられ、天台大師は煩悩に三種ありとして、見思惑(けんじわく)・塵沙惑(じんじゃ)・無明惑の三惑(さんわく)の一つに挙げています。
 見思惑の見惑とは、物事の道理に対する偏見(へんけん)の迷いで、思惑とは物事に執(と)われて起こす本能的情動的な迷いをいいます。塵沙惑とは、衆生を救済する際に、塵沙のごとき無数の差別の相(そう)に暗い迷いをいいます。
 そして無明惑とは、差別的な世界観によって中道実相(ちゅうどうじっそう)の理に迷うことをいいます。分けても無明の最も根源的なものを元品(がんぽん)の無明といい、この無明が諸(もろもろ)の煩悩の根源をなしているのです。
 衆生は、この無明煩悩を根源として悪業を重ね、その果報として諸の苦しみを受けるのであり、この無明煩悩に支配された九界の迷いの生命を染法というのです。
 また、浄法の「法性」とは、一切の諸法が本然的に具(そな)えている真実不変の性分のことで真如・実相または仏界・仏性ともいわれます。すなわち浄法とは、金剛不壊(こんごうふえ)にして清浄なる生命をいいます。

 無明即法性
 妙楽大師は、『法華玄義釈籖(しゃくせん)』に、
 「染浄不二門とは、若(も)し無始より法性に即して無明と為(な)ることを識(し)らば、故(もと)より今、無明に即して法性と為ることを了すべし」
と、染浄の二法である無明と法性が一体不二であることを示しています。
 爾前経(にぜんぎょう)においては、染浄の二法は、二元的に隔絶(かくぜつ)されたものであって、染法(煩悩)を断ずることによって初めて浄法(悟り)を得ることができると説かれました。
 しかし法華経に至ると、迹門(しゃくもん)では二乗成仏が明かされて理の一念三千が説かれ、法華経本門『寿量品』に至って釈尊の久遠常住の命が明かされて事の一念三千が説かれました。ここにはじめて、真の九界即仏界・仏界即九界の即身成仏が確立したのです。
 法華経の結経である観普賢菩薩行法経には、
 「煩悩を断ぜず、五欲を離れずして、諸根を浄め、諸罪を滅除することを得」(法華経 六一〇n)
と、煩悩を断じ尽くさなくても煩悩がそのまま悟りの当体であり、相即不二(そうそくふに)であることを説かれています。

 善縁とは
 日蓮大聖人は『当体義抄』に、
 「法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫(くん)じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと雖も然も法性真如の一理なり。譬へば水精の玉の日輪に向かへば火を取り、月輪に向かへば水を取る、玉の体一なれども縁に随って其の功同じからざるが如し。真如の妙理も亦復是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇(あ)へば迷ひと成り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり」(御書 六九二n)
と仰せです。
 衣服に香を薫(た)き込めば衣服に香りが染みいるように、煩悩・業・苦が染み込んだ生命は迷いの衆生(九界)となり、逆に清浄な香を薫き込んだ生命は、悟りの衆生(仏界)となって顕れることを「法性真如の一理」と説かれています。しかしまた、真如の妙理は、無明である染法と法性である浄法はそれぞれが別のものとして存在しているのではなく、悪縁に遇えば迷いの無明となり、善縁に遇えば悟りの法性になるのです。
 今日の現代社会は、果てしない欲望、争い、不正が渦巻く混迷の世となり果てています。
 しかし、こうした暗い迷いの染法に支配された悪世にあっても、それに染まらず、紛動されず、清浄なる生命を確立する方途(ほうと)を日蓮大聖人は説き明かされています。
 すなわち、日蓮大聖人は、「染法」を「浄法」に転ずることのできる最勝・最尊なる「善縁」として本門の本尊を御図顕されたのです。
 『当体義抄』に、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同 六九四n)
と仰せのように、私たちは大聖人の文底下種(もんていげしゅ)の御本尊を微塵(みじん)の疑いもなく信じて、そして南無妙法蓮華経と本門の題目を唱えることにより、染法たる迷いの生命を浄法たる悟りの生命である三徳へと転じ、真の即身成仏の本懐を遂げることができるのです。

 平成二十一年に向かって
 御法主日如上人猊下は、
 「人間は善い縁に触(ふ)れれば自然と善い方向に向かいますが、悪い縁に触れますと、いつの間にか悪い方向に行ってしまいます。(中略)幸せな人生を送ろうとするならば、正しい大聖人様の教えに縁していくことが一番大切なのであります」(大白法 六九九号)
と御指南され、正しい大聖人の教えに縁することが善縁であり、幸せな人生を送る唯一の方法であることをお示しです。
 我々が善縁となり、迷いの中で苦しんでいる人々を悟りの境界へと転じていけるよう、より一層、折伏行に励んでいきましょう。